極真空手と浄土真宗はその変遷に多くの共通点がある。「真」つながりだけじゃなくてね。
かつて極真空手は異端の一団体でしかなかった。
伝統空手の寸止め試合を「空手ダンス」と揶揄し、自ら「実戦空手」「地上最強」と称して初めて直接打撃制の大会を主催した。そんな極真を伝統空手側はケンカ空手、下品な奴らと侮蔑し、差別的にさえ見ていた節もある。
極真が直接打撃制を打ち出したのは、寸止めルールの前提が「一撃必殺」にあることへの素朴な疑問からだった。素人相手ならともかく、鍛えた者同志であれば攻撃を紙一重でよけられなくてはならないし、万一打撃を与えられてもはね返せるのが本当ではないか。そもそも「一撃必殺」って、実際はどーよ?というある種ホンネの問い。それが伝統空手側を刺激したのは想像に難くない。
浄土真宗もまた、異端の一集団でしかなかった。
清僧を標榜しながら裏では贅沢な酒食と女犯に浸る伝統仏教僧。そこでの戒とは何か。「隠すは上人、せぬは仏」という戯言は、僧侶の自嘲というより開き直りではなかったか。真宗は、肉食妻帯に代表される人間存在、そして差別として現れる人間社会への凝視により、仏教の救いをより鮮明にテーマとしうることに成功した。
「で、実際はどーよ」。この問いは、真宗にせよ極真にせよ、何よりも自己自身に向けられたものだ。しかし周りはこれを掟破りの挑発と受け取り、真宗と極真は共に傍流を歩まざるを得なくなる。
事情が変わったのは、エキスパートプロパガンディストの登場によってだ。真宗においての蓮如であり,極真においての梶原一騎である。
40半ばを過ぎて門主に就いた蓮如は、卓越した人心掌握力と組織論を駆使してそれまで寂寂としていた本願寺をほどなくして日本一の大教団に変身させた。また、梶原の『空手パカ一代』が空手界のみならず格闘技界全体に与えた影響は、蓮如のそれに比肩することに誰も異論はなかろう。
何より蓮如と梶原に共通する最大の一点は、メディアを駆使したことだ。蓮如の思想と人間性は手紙の形式に複製されて瞬時に全国へ伝わった。梶原はマンガ世界を現実の格闘技界と交錯させ、「地上最強」という看板に信憑性を与えることに成功した。
卓越したメディア戦略により一躍メジャーの座に就いた真宗と極真。しかしその後両者は、自ら掲げたホンネ路線に自らを問われることとなる。
メジャーになることは、それ自体が伸長することを必ずしも意味しない。「それ的」なものの蔓延を意味する。
極真のメジャー化は、極真の伸長以上に、極真的なるものの蔓延を許した。「極真的」とは、直接打撃と「それって実際はどーよ」的視点である。
伝統空手も直接打撃を取り入れるようになった。そして実戦を標榜する新興団体は極真に問いを突きつけてくる。「顔面攻撃がない。それってどーよ」極真ルールの試合では手技による顔面攻撃を禁止している。それで「地上最強」と言えるのか。
かくして極真戦士はK-1などのリングに登り、異ルールに対応できず苦戦を余儀なくされる。
今は誰も極真空手が「地上最強」などとは考えない。極真の松井館長自身が館長就任直後のインタビューに答えて、極真空手が地上最強かどうかなどどうでもいい、武道のワンオブゼムとして生きていく旨の発言をしている。
真宗のメジャー化は、他宗派の真宗化を促した。明治以降、伝統仏教各宗派は肉食妻帯を公然と認めた。そこにいかほどの教学的整合がなされたかはともかくとして。
伝統仏教の真宗化に伴い、「それってどーよ」という問いは真宗自身に向けられるようになる。「真宗では差別を糾す。しかし教団内のお寺同志に差別的関係はないか。院号授与や色衣によって成り立つ経営に差別性はないか」南無阿弥陀仏の念仏ひとつというラジカルさを前に、教団が纏うものはあまりに夾雑に映ってしまう。
また、真宗は近代的知性を取り入れながら宗教色を薄める方向に進んできたが、ここにきて、中身は真宗に通じながら宗教の装いを拒否している勢力が伸びてきた。彼らはスピリチュアルとかトランスパーソナル心理学などと呼ばれる。それらからすると真宗は、宗教的にも精神的にも中途半端な立場と見えなくもない。
今の格闘技の隆盛に極真空手が果たした役割はとてつも無く大きい。その当の極真には、かつてのケンカ空手の風情はほとんど見られなくなった。実戦空手が広まり、陳腐化したことにより、逆に伝統回帰の道を選択したかのようだ。
これまでの宗教界における真宗の役割もまた大きかった。しかし真宗もまた極真のように、伝統を回復する方向を余儀なくされているのではないか。真宗の伝統ではなく、仏教の伝統に。その鍵は肉体性の獲得にある。肉体に付随するもの。それは涙であり吐息であり体温だ。
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