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弾圧から800年

本日より3日間、東京教区夏期僧侶研修会。
テーマは「承元の法難800年、念仏弾圧が今に問うもの」
歴史を学ぶのが主ではなく、弾圧を受ける質をもった念仏を今いただくことの意味を問う。

研修会を途中抜けて、延立寺に戻り法話会。
本日の講師は先月に続いて赤川浄友師。例によって予定どおり時間超過。ましかし反応は極上に良いのでよしとする。

お話後の茶話会では「真宗が他宗を否定批判しているのはいかがなものか、宗教対立を生むだけではないか」との意見が出る。
いや、あれもこれも、という態度は一見寛容だがそうではなく、結局自分をそれらの上に立てて利用しようとする不遜に過ぎない。真宗者としては他宗教は尊重した上で私には不要だと言っているのだ、と応えたが、納得していただけない。
さらには「宗教なんておつきあいでいいんですよ」という声も出て・・・

かつて、首を飛ばされ流罪にあいながらも伝えられてきた念仏を、伝えられていない住職の力不足でございます。

http://homepage2.nifty.com/enryuji/

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Comments

法話会の後の質問ですが、具体的にどのような質問があったのかよく分かりませんが、住職さんの言われる“真宗者としては他宗教は尊重した上で私には不要だと言っているのだ”という意味は私には良く理解できます。
私事で恐縮ですが、私は今から十数年前に延立寺さんとご縁ができるまで、毎年の新年には高幡不動に初詣に行っていました。そして、ご祈祷料1万円を払って社殿に上がってお願い事をし、お払いを受けて、お守り札をもらってそれを自宅の床の間に飾り、これで1年間家内安全と安心していたものでした。つまり、そのときまで私には高幡不動は必要不可欠のものであったのです。
あるとき、ご縁があって近所の延立寺の法話会に参加し(そのときの講師は本田先生であったと思います)、何回か通ううちに次第に浄土真宗の本当の教えが理解できるようになり、遂には住職さんにお願いして女房と2人で延立寺で帰敬式を上げて法名を戴きました。
浄土真宗の教えを一口で言うのは難しいのですが、私流に言うならば、“何もお願いしなくても、阿弥陀様の方から先回りして私達を守って(救って)下さる。従って何もお願い事をする必要はない。亡くなった人は全てお浄土に行き幸せになれる。従って生きている私達が亡くなった人のために追善供養をする必要は全くない”ということでしょうか。
これが信じられるようになった現在、私はどんな立派な神社へ行ってもお参りする気は全く起きません。それは心から信じている阿弥陀様に反する行為であるからです。つまり、現在の私にとって神道とか神社は全く必要がありません。しかし、私は神道や神社は長い間の日本の文化を支えてきたものであるので、それらを否定する気はありません。神道や神社はあっても良いものであり、住職さんと同じように尊重したいと思います。これが住職さんの言われる“真宗者としては他宗教は尊重した上で私には不要だと言っているのだ”という意味ではないでしょうか? 違っていましたら、ご教授をお願いします。
ついでに書かせていただきますと、浄土真宗の教え“何もお願いしなくても、阿弥陀様の方から先回りして私達を守って下さる。亡くなった人は全てお浄土に行き幸せになっているので、私達は追善供養をする必要はない”ということはとても簡単な事ですが、これを本当に信じられるかどうかが、信仰の分かれ道だと思います。法話会で質問した人も恐らくこれが信じられないのではないでしょうか。
その原因は、浄土真宗の布教がまだまだ不十分であると私は思います。私の率直な感想ですが、こんな素晴らしい教えがあるのに、どうしてもっともっと熱心に布教しないのか!といつも思っています。
すみません、つい本音が出てしまいました。しかし、これは真宗全体の問題です。住職さんの布教はとても熱心で尊敬しております。どうか今後ともとろしくお願い致します。

Posted by: 釋周満 | July 31, 2007 at 04:17 PM

ここが、真宗の難しいところです。

阿弥陀さまは、色もなく形もなく、、、
心も及ばず、言葉も絶える、、、。
キリスト教的な二元論と違う世界=縁起の世界なのです。
阿弥陀さまが、アッチにいて、信心のかたまりを投げてくれ、
コッチは、もらうだけ!という世界ではないのです。

ああそうだったなぁ、、、と、頭が下がる、
信楽峻麿先生は、
「他力とは、自己を深く根源的に否定することの中で、
 不思議にも成り立ってくる世界」
と、仰います。
本多 静芳先生も、
「信心とは、自分の深いところで自分の迷いを自覚することと同時に、
その私が今までのあり方とは方向の異なる浄土を志向しつつ生きるという体験」
と、仰います。

回心(えしん、コンバージョン)=心が転回し、
大きく入れ変わることが、大切な体験なのだと、思います。
(参考:内野と外野が入れ替わる=コンバート)

神社も神棚も否定はしませんが、
生き方の感動があるとは、僕には思えません。
僕は、感動のご法話を心掛けています。
          なあむ~合掌~合笑

Posted by: Red Joeyou | August 01, 2007 at 11:26 PM

実は、7月23日、延立寺ご住職が自坊へ帰られた午後、築地の僧侶研修会では「信教の自由」について菅原伸郎さん(元・朝日新聞記者)の講義がありました。
その中で、宗教とは寛容なのか、それとも厳格なのかという問題を提起してくれました。
多角的に論じていましたがその中で、今日、宗教的な多元主義(つまり、異なった宗教の存在を認める立場)からイギリスのロバート・ジャクソン教授が今年、青山学院で講義をされた内容から紹介がありました。
「今、イギリスでは宗教的寛容教育を重視している。
それはある意味でプラグマティズムの立場から、英国におけるテロの回避を視野にいれたものだ。
宗教的寛容・融和の精神の修得・涵養により、結果として国家の安全保障の問題、つまり国民の安全につながるという視点がある」
極めて切実な要求に基づくもので身も蓋もないように聞こえるかもしれません。
しかし、背に腹は代えられないという問題意識と宗教とは密接なもの、もっと言えば、宗教は心の問題ではなく、身の問題だということを私は学びました。
ロバート・ジャクソン教授は、寛容教育は三段階を取るといいます。
「①、宗教的忍耐。自分が否定する宗教を忍耐する段階。例、英国におけるマジョリティから見たIRAやイスラムへの対応。
②、宗教的尊敬。次に他者が尊ぶモノに敬意を持つ段階。例、日本でいえば、WCRPなどの集いや新宗教教団主催の戦没者追悼法要などにおける伝統仏教の立場の人の対応がこれにあたる。
③、宗教的学び。そして、他の宗教的な立場を通して、自分の宗教的な内容(信心など)を豊かにする段階。例、日本の東西宗教交流学会、全国キリスト教懇談会など学術の交流を通して自分の宗教性を深めている。真宗では大谷派が大谷大と独マールブルグ大学との交流をしているが、学術的な形式を通すことが多い。(残念ながら本願寺派にはそうした交流は見られない)」
と菅原氏は指摘していました。
真宗者といってもその幅も広く、お寺の法座に来ることすらない人、おつきあいで集まる人、念仏の信心を求道する人、そして自身の信を深めようとする人など様々な段階があるでしょう。
しかし、いずれにしても真の意味の宗教的寛容性とは、自身の宗教的な立場を顧みること抜きに成り立たないものでしょう。
そして、自身の宗教性を顧みるとき、宗教的寛容性とは、自分の宗教的な立場を明確化するということが重要なこととなるように思われます。
確かに、松本住職がお書きになるように、「真宗が他宗を否定批判しているのはいかがなものか、宗教対立を生むだけではないか」という表現が生まれるという現実は、釈周満さんが「浄土真宗の布教がまだまだ不十分であるということでしょう。
教えに出遇い、私自身の生きる方向性がコンバートした、いや回心を頂いたと喜ぶところに、自ずとこの生き方を周りの人に「巧く」伝えたいという工夫が生まれると素晴らしいですね。

Posted by: manybooks | August 02, 2007 at 12:36 AM

んんん、、、。
勉強になりました。 なあむ

Posted by: Redです。 | August 04, 2007 at 10:43 AM

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