複製ではなく
昼間のラジオでコラムニストの堀井憲一郎氏が談志の逝去に関連してこんなことを言っていた。
談志が亡くなってから、改めて談志の落語を聴き直したいと思う人が多い。では数あるDVDやCDの中でどれを聴くのが一番いい?と問われた弟子はこう答えた。
「志の輔を聴いてください」
堀井氏によれば、落語は生もの。生で接しなければ落語ではない。DVDにもCDにも談志はいない。
では談志を聴く術はないのか。談志はこの世から消えてしまったのか。
いや、談志を聴きたければ弟子の志の輔や談春や志らくを聴いてくれ。彼らの落語の中には必ず談志がいる。談志の息遣いもまなざしも思想も今そこにある。もっと上の年代の弟子の落語の中には、寄席に出ていた時代の談志がいる。
落語において複製は意味がない。それは、人間において、と言い換えてもいいだろう。
前に「法然と親鸞展」に関連して、複製で十分と書いたが、それとこれとは矛盾しない。
人は、モノや思い出の中にではなく、縁があった人の存在自体において生き続ける。だから、いのちは本質的に私物化できない。
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